(ふぐ料理)小やなぎ
「小やなぎ」 ☆☆☆☆
この界隈はたぐいまれな料理屋が点在している。十日ほど前、東京メトロ麻布十番駅の一番出口を上がり炉窯料理の『玉青』に出向いた。本日は七番出口から上がって河豚料理の「小やなぎ」を目指す。玄界灘、三年物の白とらふぐを食べさせてくれる『さくら田』もこの辺りにある。環状三号通り沿いを、京料理『幸村』の入った雑居ビル前を通り過ぎて歩いていくと、「ふぐ」と書かれた大きな提灯がぽつんと灯って見えた。
東京河豚料理店の中で高名な「小やなぎ」は、その評価がまこと分かれる店である。河豚好きの連れと私も、もっと早くに訪れてみたかったのだが、店内は煙草の煙が立ちこめるという噂に恐れをなして、訪問を躊躇していた。少しでも紫煙は避けたいと腐心して、祝日の午後六時の開店時間に合わせて予約を入れた。
この河豚屋の貫録を示すような大提灯を眺めながら、狭く急な階段を用心深く地階に降りた。草臥れた遣り戸を開けると、見渡した店内は思いのほか小さいようで、レトロの雰囲気が満ち溢れている。すでに店内は御婦人のグループと家族連れの、二組八名ほどの客がテーブル席に先着されていた。六十も半ば、ねじり鉢巻きを粋に結んだ、一刻そうな御主人に促されてカウンター席へと座った。ホールを担当される、赤地に黒の豹柄のブラウスを身に纏った女将は、たいそうお洒落な人である。あとは実直そうな血縁筋の若者が御主人と厨房に立つ。店のメニューは河豚のコース料理(一万三千円)のみのようで、キリンビールで喉を潤していると、注文も聞かぬうちに料理が運ばれてきた。
「ふぐの煮こごり」は河豚を煮たときに出るゼラチンに味をつけ冷やし固めたものだ。中に河豚皮と身皮が入った濃い赤橙色の「煮こごり」は、非常に弾力のある食感で、白飯が欲しくなるような味付けである。堪らず注文した「ひれ酒」には、炙ったトラフグの尾鰭が四、五枚も入る。この鰭は上質のようで三合ほどの注ぎ酒ができた。忘れずに「白子焼き」も一皿追加する。
青磁の中皿に盛られた「ふぐ刺し」は薄めに引かれて、湯引きされた河豚皮や、とおとうみなどと供された。微塵切りの鴨頭葱が散らされた「ポン酢」が入った器も運ばれる。この刺身の量は十分なものとは思えなかったが、透明感と光沢が感じられる菊盛りにされた「ふぐ刺し」の味は、まずまずというものに思える。なにより自家製「ポン酢」の味が美味く感じられた。
御主人に河豚の産地を尋ねると「最近は海流が変わって産地が不明です」などと言葉をあいまいにされる。十年ほど前から潮流の変化などで、突然に遠州灘(静岡沖)が日本有数のトラフグ漁場となり、地元漁師の生活は大いに潤った。静岡の舞阪港を始め全国各地の港に水揚げされたトラフグの八割方は、一旦は山口県下関の南風泊(はえどまり)港に運ばれて、下関産の天然物として全国の市場に出回る。本日提供された河豚は、遠州灘で獲れたものであり、正直な御主人が産地不明と言われたのはこのことであろう。
「白子焼き」は大きく膨らんだ二個の白子を、連れと一個ずつ食べた。素焼きにされた白子なので、目前の卓上塩を用い、自分の好みに応じて味付けできるのは有難い。焼かれた白子の薄皮を箸で破いて塩をして、熱々を啜りこむ様に味わった。口中に迸るクリーミーな美味さに、鰭酒の一合はすすむ。やはり素揚げで供された「ふぐ唐揚げ」も、好みで塩をするか、用意されたレモンやポン酢をつけて賞味する。丁寧に目前つけ場にて揚げられた唐揚げからは、香ばしさが立ち上った。
カウンター上の土鍋で作られる「ふぐちり」には、ふぐの身とアラ、白菜、長葱、椎茸、春菊などが入る。ポン酢が上等なので鍋も美味い。「ふぐちり」が終わると女将さんが席に来て、丁重に雑炊を作ってくれる。評判の「白子雑炊」を頼んだ。残った出汁に御飯と白子を入れて、時間をかけて加熱し、水分を飛ばして旨味を凝縮させていく。白子雑炊を連れと二杯ずつ美味しく頂いて、蜜柑のデザートで締め括った。
料理全体の印象はこの店は東京の河豚料理店の中でも、レベルが高い河豚料理を提供している店に思えた。当初、無愛想にも見えた御主人と女将は、存外に気がいい人達で、実にこまごまとした気配りをしてもらった。その雰囲気と居心地の良さに腰が落ち着いて、三時間以上の長居となる。
河豚とはプライス・イコール・クオリテイが最も顕著に現れる料理である。当日の勘定の額は二人で四万三千三百円と、私が東京で名店だと思う河豚料理店の凡そ半分以下の支払ですんだ。それら名店の河豚料理の味には到底及ぶものではないが、この店のコストパフォーマンスは格段に良いものと感じた。
幸いなことに当日は喫煙する客もいなくて快適であった。帰り際に初めて男性客が煙草を一本吸われた。狭い店内にキナ臭い匂いが広がる。ここで数名が煙草を吸ったらと考えたら、ぞっとした。タバコの煙が嫌いな方は、開店時間の一番乗りで入店されることをお薦めする。ここ「小やなぎ」は、気楽に本格的な河豚料理を堪能されるには、まことに良い店だと思える。
ホームページの「東京食道楽記(極上の味を求めて)」では、男女二人が、それぞれの視点から、食べ歩きの原稿を書き上げております。興味のある方はご覧になってください。
http://www18.ocn.ne.jp/~gokujyou/
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